訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

佐治敬三氏 肺炎のため死去

 サントリー会長で元大阪商工会議所会頭の佐治敬三(さじ・けいぞう)氏が3日午前6時31分、肺炎のため大阪府吹田市の大阪大学付属病院で死去した。80歳だった。サントリーの創業者、鳥居信治郎氏の二男。率直な物言いで時に「熊襲(くまそ)発言」などの舌禍事件も起こしたが、若乃花の結婚の媒酌人を務めたり、プロ野球球団買収に夢をかけるなど、カリスマ的な持ち味の名物経営者だった。

ウイスキーを大衆化 トリスでブーム

 佐治氏は「ウイスキーを茶の間に持ち込んだ男」と言われた。創設者・鳥井信治郎氏の二男だが中学の時に母方の親類の養子となり名字が変わった。大阪大理学部を卒業後、兵役を経て1945年(昭和20年)9月、寿屋(現サントリー)に入社した。

 「一番大事なウイスキーの原酒をためてあった京都の山崎工場が奇跡的に無傷やった。原酒さえあれば、ウイスキーを作れる」。進駐軍への売り込みを行い、将校の接待で自然と英語を身につけたという。

 翌46年「これからは大衆消費時代や。大衆の手に届くウイスキーを出すべきだ」と「トリス」を発売。柳原良平氏のイラスト「アンクル・トリス」と、山口瞳氏の「トリスを飲んでハワイへ行こう」というキャッチコピーは一大ブームを呼び、ウイスキーの大衆化を根付かせた。「若者の柔軟な発想を摘んではいかん。やってみなはれ」が口癖で、企業の宣伝部がヒット商品を生む模範と言われた。

率直発言舌禍も

 佐治氏の自由奔放さと率直な発言は時に舌禍事件も呼んだ。88年に遷都論に絡み「東北は熊襲(くまそ)の産地。文化程度が低い」と発言し、抗議を受け、不買運動も起こった。このときは自ら東北に出向き、涙を流して謝罪して事態収拾を図った。

 スポーツ、文化事業にも力を注ぎ、大相撲の若乃花、貴乃花の後援会長を務め、若乃花の結婚では媒酌人を務めた。73年にバレーボール部、80年にラグビー部を創設し、ブームを盛り上げた。「プロ野球球団を持ちたい」という夢を持ち、米国のマイナーリーグを所有したこともある。89年(平成元年)には阪神、92年にはオリックス、大洋(現横浜)の買収に関心を寄せ、97年には大リーグ、ドジャース買収にも身を乗り出していたとされる。

 モットーは「美感遊創(すべて常に心にゆとりを持ち、新鮮な感性を養い、豊かな創造を生む)」。90年3月に社長から会長になって第一線から退いた形だが、サントリーの顔であり続けた。

 葬儀日程
 ▼自宅 兵庫県川西市寺畑2の14の6。
 ▼密葬 5日午後1時から大阪市中央区本町4の1の3、津村別院(北御堂)で。
     社葬を行うが日時は未定。
 ▼喪主 サントリー副社長で長男信忠(のぶただ)氏。


悼む 

もうけるだけの実業家じゃない

 サントリーのCMキャラクター「アンクル・トリス」を描いた画家の柳原良平氏(68) 佐治さんにスカウトされ、三和銀行の宣伝部から当時の「寿屋」宣伝部に入った。トリスの広告は開高健らとやったが、佐治さんは会社に入りたてのぺーぺー社員のアイデアも面白ければ即座に「やってみなはれ」とOKを出してくれた。「これはしちゃいかん」とは言わなかった。

 技術畑出身で、品質にもこだわった。だから私たちも本物を宣伝するという誇りがあった。ビールを作るころには、情熱を傾けるあまり「デンマークの酵母を使うのだ」と言って、宣伝部も皆で北欧まで連れていかれた。それが寿屋宣伝部の黄金時代を築いたのだと思う。

 夢を追いかけたり、素直に気持ちをぶつける人だったから、時に言い過ぎることもあった。関西の商売人のがめつさも持っていたが、それだけではない。美術館や自然保護にも力を入れ、決してもうけるだけの実業家じゃなかった。

 木造の寿屋から大きなサントリーのビルになるまで一緒にいたが、佐治さんとの仕事は本当に楽しかった。

ともに喜び合った

 サントリー・ラグビー部OBの本城和彦氏(39=同社広域営業本部担当部長) すごくおおらかで豪快な感じを受けますが、その裏でいろいろなことを考えておられました。ラグビーに関していつも気にかけていただき、会社で会うと「ラグビー部はどうや」と声をかけられました。大会にも足を運ばれ、勝った時は喜び、負けた時は「次、頑張ればいい」と励ましていただきました。全国大会で優勝した時、食事をごちそうになったのが、いい思い出です。

若乃花「残念です」

 佐治会長は「若乃花・貴乃花関西後援会」の会長を務め、1994年(平成6年)6月には若乃花と美恵子夫人の挙式で媒酌人を務めた。この日午後、訃報(ふほう)を聞かされた若乃花は「えっ本当なんですか」と、言葉を詰まらせた。「会うたびに優しい言葉をかけてくれて……残念です」。九州場所の休場は決定的だが、故人に復活を誓う。


◆佐治敬三氏 語録

 ▼88年2月 「仙台遷都などあほなこと考えている人がいるそうやけど、東京〜大阪間には6、7000万人が住んでいる。北になんぼ住んでいるか知らないが、大体熊襲(くまそ)の産地だから、それほど住んでいるわけではない。文化程度も極めて低い」(民放テレビの特集番組で)

 ▼90年1月 「2、3日前、企画部が書いてきた『29年間社長を務めてまいりました』というくだりのある原稿を見て、辞めた方がいいと思った。『あんたは犬のように、あっちへ行ってワン、こっちへ行ってワンとほえるような性格』と色紙に書いてくれた開高健氏が昨年12月に亡くなったことも響いている」(社長退任会見で)

 ▼92年4月 「一般投資家に大損させたり、スキャンダルを起こした証券会社も多く、社長が辞めるくらいでは責任は済まされない。一体、首をくくった証券マンが10人も出ているのか」(証券不況に触れて)

 ▼94年6月 「勝負は一瞬、勝ちは美恵子さん、負けは若ノ花関。決まり手は取ったり。若関はサジを投げるような人ではありません」(若ノ花の結婚式で媒酌人を務め、ダジャレ連発)

 ▼96年4月 「経営者としては失格かも分かりませんけどな『もうかるか』いうことだけやなしに『おもろいか』という尺度で考える経営者がもっといていい」(趣味の写真、俳句、絵画の個展を開いて)


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